スウェーデンの社会と、個人・生活についての考え方!

医療と福祉

現代のスウェーデン社会

現代のスウェーデン社会は、多国籍国家と言えます。

スウェーデンは、第1次、第2次世界大戦後の産業の発達に伴って労働力が求められ、南ヨーロッパなどから外国人労働者を積極的に迎え入れてきました。

その後は世界各国から内政や国際紛争の避難民なども受け入れて、現在では人口約1,022万人(2018年11月統計)のうち実に約23.2%にあたる約240万人が世界中100カ国以上からの外国人移住者とその家族で、それぞれの文化や価値観を持ちながら、スウェーデン社会に溶け込んで生活を営んでいます。

スウェーデンはまた、ノーマライゼーションが社会に浸透している福祉社会国家でもあります。

ノーマライゼーションというのも、究極的に言えば、いろいろな条件を持ち合わせる個人一人一人が、それぞれ社会の一員として共存できる条件作りをするということです。

そこには戦争による避難民もいれば、もちろん疾患のある人や高齢者、機能障害を持つ人たち、あるいは薬物依存者や社会からの脱落を余儀なくされた人たちなど現代社会に生きる様々な人が共存し、社会はそれらを包容する形で存在しています。

これら様々な条件を持つ人が共存していくためには、一人一人はそれぞれ違う特性を持つ個人であり、そしてその上でお互いが平等であることを認め合うことが前提になります。

また平等であるということは、全ての人が同じ条件を持つという意味ではなく、それぞれが異なる条件を持ち合わせながら、社会に参加する上で同等の権利を持つということです。

社会的に不利な条件を持つ人が、そうではない普通の人と同じ権利を持ち社会で平等に暮らしていくためには、いろいろな支援を必要としますし、またそれを可能にするためには、社会全体に平等精神という理念があるということ、またその理念を具体化する法制度とシステム、そしてそれを裏付ける社会経済的な基盤が必要になります。

そのために、スウェーデンでは高税高福祉という形で福祉の公的サービスの拡大に力を入れ、いわゆる社会福祉国家と呼ばれる体制を作り上げてきました。

現在は公的なサービスの部分が民営化されるようになってきましたが、福祉サービス(社会サービスと呼ばれています)の責任は自治体にあり、また国はそれを法制度で保証するという形で、福祉国家という性格や姿勢に変わりはありません。

個人についての考え方

個人というものの捉え方は、文化や歴史とか宗教の違いによって異なります。

例えばキリスト教的な文化と仏教的な文化においては、神を創造主として対面する存在としての個人と、色即是空という仏教的な考えの上で「無我」を是とする個人というように、個人というものの存在の意味や周りと個人との関わりにしても、考え方が違います。

キリスト教的には、神の前でそれぞれは平等な個人として、あくまで自分を中心的に見ていますが、仏教的には、往々にして「周りがあってこその自分」というように、自分を中心的に考えません。

それは、例えば今でこそ「自分にとって一番大切なのは自分だ」と考える人も多くなってきていますが、一昔前だと、自分にとって一番大切なものは、例えば家族とか仕事とか、あるいは愛とか平和とか、自分を出すのではなく、自分の周りや考え方をいう人が多かったということでもわかります。

スウェーデンでは、それぞれにとって一番大切なものは自分であり、そして自分とは、独自の意見や考えを持ちそれを主張する権利を持ち合わせる存在です。
そしてそれぞれが自分という個人を大切にするが故に、相手を同じ存在として尊重しなければいけないと考えます。

なぜなら、個人同士の間に格差があれば、その権利を持つ人と持たざる人に別れるために不平等が生じ、スウェーデン的な意味での個人主義(Individualism)が機能しなくなるからです。

生活についての考え方

生活の質を語る時、日本では「衣・食・住」という方をします。
そして、生活の豊かさを考える場合には、それがいかに満たされているかが基準として考えられています。

同じ概念をスウェーデン人に当てはめて考えると、生活の基盤は「住む、働く、余暇」ということになります。
この場合の余暇はまた、日本的にいう「余った時間のこと」ではなく、自分の仕事が終わってからの自分の自由な時間という意味です。

この二つの考え方では、「働く」ということの意味も違ってきます。
日本的に「衣・食・住」という場合、働くということは衣・食・住を満たすための手段あるいは前提ですが、スウェーデン的に考えると、働くということは「人間らしく生きる」ための条件であり、また働いていない時間、つまり自分の時間を持つことも暮らしを豊かにする大切な条件の一つでもあるということです。

その意味では、例えばある人が機能障害を持つために働くことが出来ないという場合には、社会で平等に生活する上で社会が支援しなければならない問題であり、また働く意味も、単に生産性を考えるのではなく、その人が「自分の生き甲斐」を求めていくことも、それがその人にとっては働くという意味であるということです。

権利の主張

例えば知的障害者の福祉を見てみると、50年ほど前までは現在の日本のあり方や考え方と大きな違いはなかったのではなかろうかと思われます。
障害を持つ人は施設に住むのが当然と考えられ、全国的に大規模な入所施設が設置され、またそれより以前には、障害者が家庭にいると、行政的、医療的な権威で半強制的に入所施設に収容されるということも公然と行われていました。

スウェーデンでは既に200年近く前から、特に視覚障害者の団体が中心となりそれぞれの権利を主張して来たという福祉の歴史がありますが、そうした社会でも知的障害を持つ人の福祉に関しては、1950年代に親の会が発足し「自分の子どもの代弁」をするようになり、またその親の会が中心となって様々な活動をするようになってから、社会の注目を集めるようになって来ました。

このことは、スウェーデン社会でも自分の権利を主張しなければ福祉は進んで行かないということを顕著に示しています。

ちなみにスウェーデンでは、1999年12月を最後に入所施設が全廃されました。
つまり、2000年からは、入所施設に住む障害を持つ人は一人もいなくなったのです。
これも、「施設には住みたくない」という、本人の声が反映されたことに他なりません。

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