自立ということ!

北欧情報

監修:

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最初のカルチュアショック!

今から50年前の1969年に日本から片道切符で渡欧し、まずスウェーデンに腰を下ろすことにした。
片道切符で日本を出るというと、行く先々で稼がなくてはならない。
当時は海外旅行には300ドルしか持ち出しが出来なかった頃だから、着いて1ヶ月もすると無一文になってしまった。
そこで人づてに「アーティスト職安」というものがあることを聞いてギターを抱えて飛び込み、簡単なオーディションやインタビューの後、「仕事を探してみるから、1週間ぐらいしたら戻って来なさい」と言われた。
労働許可証は持ってなかったが、学生ということだと人の紹介でも仕事が出来た古き良き時代の話である。

そこで 「まあ様子を見て、もし駄目だったら皿洗いでもするか…」と一先ず安心して帰り、1週間後に話を聞きに行くと、「申し訳ないけど、まだ分からない」という返事である。
残念だが、「そんなに甘いものではない」と自分に戒めるように聞いていた僕に、その職安の人から「それで、この前来た時から、仕事見つけるのに君自身はどんなところ回ってみたの?」と聞かれた。

僕が「いや、ここで探して貰えるということだったので、一応その様子を見てからと思って…自分では別に他のところを回ってはいません」と答えると、相手は僕の肩に手を置いて、「あんた、それって自分の仕事なんでしょ?自分でも探さなきゃ・・・」と笑いながら言った。
旧ソ連からヘルシンキを経由してストックホルムに入り、ようやく北欧独特の建物の感じや人の様子にも慣れてきたという頃であったが、その職安の係員の一言に、「あ~、ここは日本じゃないんだ!」という思いが全身を貫いて、思わず赤面したものである。

僕の中学校の校訓は「明朗闊達、自主独立」というものであったし、自分のことは自分でするくらいのことは、日本だって誰でも知っているはずだ。
しかし同時に、人に物を頼んだらその相手を尊重して、自分では勝手に動かないように心がけるのが礼儀というものではなかったか?

自分が勝手に動くと、頼んだ相手を信頼していないことにもなりかねないし、頼まれた相手も、自分に頼んでおきながら勝手に動くのは失礼だと思うかもしれない。
まあ普通はそう考えて、それが相手を尊重するということにもなる。
結局のところ、人情という風土の中で、自分のことは自分でするということが曖昧にされていることが実に多い。

ところがスウェーデンでは、「自分のことは自分でする」というのは当たり前だが、それは文字通り「あくまで自分でやる」ことで、他人をあてにする事は出来ない。
住居を得るにも仕事をするにも学校に行くにも、何をするにも自分で動かなければならない。
これは、子供の頃から家庭でも学校でも教わるものである。

そういえば、日本に長期滞在していた頃、自宅に民生委員というのが訪ねてきた。
高齢者の年齢に達していた頃だから、住民登録を見て様子を見にきたらしい。
「何か困っていることありませんか?」と尋ねられたが、その時は別に困ったこともないので丁寧に「何もありません」と答えたものだったが、スウェーデンでは高齢者の自宅を訪ねて何か困ったことがあるかどうか尋ねる民生委員のようなものはない。
もちろん、あれば便利なのかもしれないが、ここでは誰もが「何か困ったこと」があれば、どこのどういうところに行って相談するかは分かっているから、自分で出かけて相談する。

民生委員が高齢者の自宅を訪ねて「何か困ったことはないか?」と尋ねること自体は、地域の自治体のサービスとして充実していると言えるのかもしれないし、地域で自分の生活を心配してくれるサービスがあるということ自体はありがたいことなのかもしれない。
しかし一方で、他人の親切が往々にして「ありがた迷惑」とか、時には「余計なお節介」とさえ感じることも多い。

ちなみに…であるが、日本ではお客さんが来るとお茶を振る舞うことが多いが、時々茶碗のお茶が少なくなると、そっと黙ってお茶を注いでくれる。
どこかで誰かとビールでも飲む時など、自分のグラスにビールが少なくなると誰かしらがビールを注いでくれる。
そんな時は、「あ、どうも…」と言いながら、これは普通で当然だと思っている。
しかしこれがスウェーデンだと、自分が頼んでもいないのに他人が黙ってお茶やビールを注いでくれるなんてことは、まず少ない…というか、ほとんどない。
自分のグラスは自分のもので、どんなペースで飲むかは自分が決めることであって、もし少なくなれば、自分の思う時に自分で注ぐものである。
自分が頼んでもいないのに誰かが黙って自分の茶碗やグラスに注がれると、自分の領域に他人が無造作に入ってくるようなもので、あまりいい気がしない。

ただ、こういう比較というものは「どちらが良いか、正しいか」で判断するものでもないし、日本とスウェーデンは文化も違い、個人というものの意識も違う。
そういえば、日本では最近「忖度」という聞きなれない言葉が流行ったが、考えてみれば、「忖度」というのは、僕ら日本人には生活の中で「当たり前」と思っている慣習で、当然なことなのかもしれない。

「自分のことは自分でする」ということ、つまり自分のことは自分に責任があるという至極単純な、しかも最も基本的なことの重さを初めて味わい、日本人である自分が持っている観念の曖昧さを初めて指摘されたことに、思わず赤面をしてしまったのである。
スウェーデンに来て、初めて味わったカルチュアショックでもあった。