相模原殺傷事件に思うこと…

コラム

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この件に関しては日本のみなさんの方がより詳しくわかっているとは思いますが…、例の相模原殺傷事件のことです。

あの事件を日本のニュースで読んだ時、それはもうショックでした。

スウェーデンで、いわゆる障害者の入所施設が完成期にあったと同時に入所施設の解体が始まった時期から、グループホームへの移行経過やそれ以降のパーソナルアシスタント制導入での自立生活の時期を体験してきた僕としては、それまで入所施設というものの性格からくる弊害なども嫌というほど見てきました。

そして、90年代からは日本の大きな入所施設も訪問する機会があり、スウェーデンとはまた違った形態や障害者の置かれている状況なども目の当たりにしてきました。

入所施設の弊害の中で大きなものには、当然職員による虐待というものがあります。
ニュースになるような虐待事件はもとより、マスコミには出ないような職員による不適当な対応まで含めると、それを大きな意味で虐待と呼ぶならば、おそらく相当数の虐待が日常茶飯事として、どこにでも起きているんだろうとは思います。
スウェーデンだってそうでしたから…。

でも、相模原市で起こったことは、入所者19人が刺殺され、職員を含む26人が重軽症という、今まで考えられもしなかったほどの壮絶な事件でした。

虐待は想像するまでもなく当たり前にあったとしても、19人が刺殺ですよ!

当然、その刺殺者が誰であろうとか、「何故に?」ということが話題となったんですが…、それから1ヶ月ほどして、日本からきた友人が持っていた最新の新聞を読んで、何かいたたまれないような気持ちになりました。

それは同時に、「このままだと、この問題は解決できないだろう!」という、確信にも近い思いでもありました。

事件が起きてから1ヶ月余りは、犯人の人となりやそれまでの行動とか「周りは、なぜ気がつかなかったのか?」とかいう分析ばかり…、それと被害者の名前すら伏された障害者不在の話題とマスコミのニュースでした。

それから3年半たった今、殺人罪などに問われた元職員植松被告に対する裁判の初公判が横浜地裁で開かれました。

そこで植松被告は、起訴内容について「間違いありません」と述べたということです。
加えて、被告人質問では重度障害者を念頭に「意思疎通が取れない人間は安楽死させるべきだ」とか、理由として「社会保障費など多くの問題を引き起こしている」と持論を述べたうえで、その考えは施設で働く中で芽生えたとも言っています。

この事件を巡る一連のニュースや原因を探る動きでは、特に加害者である被告の人間性や施設側の雇用に関することや被告の勤務状態などが話題になりました。

また、被告は事件前に「障害者を抹殺できる許可をください」との手紙を衆院議長公邸に持参し、16年2月に措置入院していたそうで、被告の精神状態も話題になりました。

でも、事件の原因や要因を深く考えると、僕としてはどうしても暗い気持ちにならざるを得ないんです。

一体、彼の考えというのは、彼一人の特出した極端な考えなんだろうか?

彼の行動は許されないとしても、彼の考え方に一定の共感を覚える人は誰もいないと断言できるだろうか?

それは、彼一人の狂気がもたらしたもんなんだろうか、って…。

自身が脳性麻痺による重度身体障碍者である木村英子参院議員は、植松被告の初公判を受けて、ブログで文書を発表して、こう述べています。

記事からの抜粋ですが…

「このような残虐な事件がいつか起こると私は思っていました。なぜなら、私の家族は障がいをもった私をどうやって育てたらいいかわからず、施設にあずけ、幼い私は社会とは切り離された世界の中で虐待が横行する日常を余儀なくされていたからです。(中略)

そんな環境で、職員は少ない人数で何人もの障がい者の介助をベルトコンベアーのように時間内にこなし、過重労働を強いられます。そのような環境の中で、障がい者は、絶望し、希望を失い、顔つきも変わっていく。その障がい者を介助している職員自体も希望を失い、人間性を失っていき、目の前にいる障がい者を、人として見なくなり、虐待の連鎖を繰り返してしまう構造になっていきます。(中略)

このような環境では、何もできないで人間として生きている価値があるんだろうかと思ってしまう植松被告のような職員が出てきてもおかしくないと思います。」(参議院議員木村英子オフィシャルサイト『相模原事件発後半にあたり』2020年1月8日から)

そうなんです、これが正に入所施設というものの弊害と実情なんです。

この事件にショックを感じた僕は、その1ヶ月後の新聞の切り抜きを読んで、自分のFacebookに投稿をしました。

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「昨日、日本から人が来た。
久しぶりに、26日付の新聞を読んだ。

1ヶ月前から、この事件についての報道は今も続いているけど…

「しょうがいをもっている」という理由で、人が施設に住んでいるのはおかしいんじゃない?」という話が聞こえてこない。

「施設はどうあるべきか?」とか、
「なぜ周りは気がつかなかったか?」とか…

今日の27日に、TBSテレビで当事者の事件についてのインタビューが放映されたとか…

「しょうがいをもっているというだけ」で、あれほど大きな事件。
自分以外の誰かへの心配りで、名前も公表されない仲間の運命。
そして、多くの仲間はまだそういう「施設」というものに住まわされていること。

たった一人の声かもしれないけど、

他にも、「施設から地域で自立生活」を願う人は大勢いるのは知っているけど…、
そろそろ「そういう声」が多くなって、話から行動に移せないもんだろうか?

だって…、命、無駄にはできないじゃん?」

2016年8月28日、Facebook投稿文より


僕のFacebookの「友達」には、日本で会った仲間や福祉関係者が大勢います。
そして、その多くは僕とも意気投合し、「やっぱり施設暮らしより自立生活だよね」という点においては共感を共にする仲間だと思っていました。

しかし、反応は意外に少なく、しかも「入所施設はなくした方が良い」とはっきり言う人は皆無に近いものでした。

でも…そもそも入所施設というものがなければ、こんな忌まわしい、しかもこれほど多くの犠牲者が出る事件なんて起こらなかったんじゃないでしょうか?

何で、障害者が入所施設に入らなければいけないんですか?

僕が「入所施設ではなく、地域での自立生活を!」と言う根拠は、「人間は誰でも、施設というものに住むものではない」ということです。

人間は本来、病気や怪我をして病院という施設に住むか、あるいは罪を犯して社会からの隔離をすると決められた刑務所という施設以外は、自分の住処に住むものです。

それが、豪邸であるか貧疎な小屋であるかは問わず、自分の住処です。

入所施設の職員のほとんどは、「ここは自分の住むところではないし、住みたくはない」と思っているはずだと思います。
でも、自分でも住みたくないと思っているところに人が障害を持っているという理由だけで住むのは、おかしくないですか?

障害を持っている人がそこに住むのは、障害者の生活を支援することが理由なら、障害を持っている人が、施設ではなく自分の住処で住むように支援する方法を考えるのが当然じゃないですか?

…と、ここまでは、僕も日本でいろいろ議論してきたことなんですけど…

でも日本には、残念ながら「入所施設がなくならない」と思われる絶対的な根拠があります。

それは、日本では今でも、「家庭環境に恵まれない児童は、児童養護施設に入る」ことが当たり前だと思っている人がほとんどである…という現実です。

いくら「障害者の入所施設を解体してグループホームに移行、あるいは自立生活を支援しよう!」と福祉関係者が訴えたとしても、児童が児童養護施設に住むことを不思議に思わない圧倒的な周りの社会環境では…

「恵まれない児童が児童養護施設に住むのが当たり前なのに、何で自立が困難な障害者が入所施設に住んではいけないのか?」という声を前にしては、ほとんど無力だという現実です。

また、植松被告が自らの思想の「根拠」として再三述べていたのが、「社会的経済の余裕がないこと」でした。
日本の景気が後退し、財政が悪化するなかで、これ以上「人間としての能力に欠ける人」のための社会保障費を捻出する余裕はないというものです。

これに対して世間では、植松被告の差別的、選民的な思想に対して、「健常者であろうと障害者であろうと、ひとりの人間として人権があり、平等である」…と、

「意思の疎通ができなければ人間ではない」とか「生産性がなければ人間ではない」などといった彼の主張に対して、真っ向から反対の声を挙げる人も大勢います。

しかし、彼の「極端な考え」は、実は社会と地続きであるような気もするんです。

つまり、「障害者が入所施設に住むことの、どこがおかしいのか?」という世間の意識と同様の考えと地続きが同じものではないかと思うんです。

私たちの間には、「家庭に障害者がいれば、親や家族が面倒をみるのが当然」として、それができない場合には「施設に預けるよりしょうがない」という考えが蔓延ってはいないだろうか?

そして、社会によりどころをなくしてしまった人を、最終的には家庭に引き取らせて「なかったことにする」動きに対してあまり異議が出ないのも、実は皆がうっすらと「この社会は余裕がないのだから、社会性、生産性がない人まで世間が面倒をみることはできない」という前提を、暗黙裡に共有しているからではないだろうか?

どこかでグループホームを設置しようとすると、まず近所住民の反対に遭うという事実を、今までどれほど多くの施設運営者が体験してきたことだろうか…。

植松被告の思想をどれほど強く否定したとしても、私たちの社会の根本には、「人間を、能力の高低や他者にもたらす便益の大小で選別するのは仕方がない」という考え方がインプットされているのではないだろうか?

これから医療費や介護費など社会保障費は、おそらく毎年のように増えていくことは必至でしょう。

今後は、医療・介護従事者の供給が高まるニーズに対応しきれなくなり、木村議員が述べたような「介助する側もされる側も疲弊する」状況が、改善するどころかさらに深刻化してしまうのは目に見えています。

個人に実感を伴うようなかたちで、医療・介護の経済的・人員的負担がいまよりずっと重くのしかかる時代になって、「もう、これ以上生産性のない事業や生産性のないものに、現役世代がお金も労力も吸い取られるのはおかしい」という論調が広く支持されるようにならないだろうか?

世界的に格差社会が問題になる中、それを単に政治のせいにして言うのは簡単でしょうが、それで解決する問題だとは思われません。

「能力のない者を養う余裕などこの社会にはない」といった植松被告の思想や主張に対し、「絶対に受け入れられない」と拒否し明言するのであれば、社会に対して説得力を与えるような論理で議論を展開し、それを批判するような世論を作っていかなくてはならないのではないだろうか…。

そうでなければ、植松被告が抱いた憎悪に、本当の意味で打ち勝つことはできないと思うのです。

僕のFacebookでの投稿にはあまり反応がなかったですけど、裁判が始まった今、改めて社会の意識を変える必要があること、そして誰かが声を挙げなければいけない切実性を改めて感じています。

ホント、そうでもしなければ、この「名も無い犠牲者」や何十万人といる仲間や同胞が救われないじゃありませんか…